空間演出、グラフィック、ファッションやディレクションまで、幅広いジャンルでキュート&モードなクリエイティビティを発揮している五十嵐氏。常にボーダレスな活動で多くの著名人やアーティストなど、多方面から支持を受けている。これまでに、マイナビpresents第28回東京ガールズコレクション2019 SPRING/SUMMERのキービジュアルの制作や、SHIBUYA 109 渋谷「40周年プロジェクト」の館内リニューアルではクリエイティブディレクターとして、環境設計や内装デザインに関するクリエイティブを手掛け、昨年には"自分らしさ"を意味する「RASHIKU YOURSELF」をコンセプトに掲げた、アンダーウェアブランド「W-MAGIC」を立ち上げる。そんな、飛ぶ鳥を落とす勢いで活躍中の五十嵐LINDA渉氏の今、過去、未来について、聞いてきました。
これまでに、クリエイティブディレクターやアーティスト、スタイリストやデザイナー等、様々な経験をされてきたと思いますが、アートに触れたキッカケを教えて頂けますか?
はい。私が実は、中学生の物心がついたときから「画家になろう」と決めてたんです。
とにかく絵を描いている時に心がホッとしたり、瞑想の時間の様な感じというか、キャンバスが友達だったんです。
物心ついた頃から画家になりたいと...お母さまの影響もあるかと思いますが、そこからどのようにして現職へたどり着いたのでしょうか?
それから、母の勧めもあって「高校もそういった専門学校へ進んだ方が良いんじゃない?」と言ってもらって、高校は御茶ノ水に文化学院という高校がありまして、そこが文学と、美術と、英語と、演劇と、建築の文科省認定の高校資格も取れるいわゆる専門学校に通い始めたんですよ。その学校が、高校なのに単位制の大学みたいな感じで、自由の中の厳しさも高校時代に学びましたね。
ファッションに進んだキッカケが高校なんですけど、高校2年生の時に、美術の授業で油絵を選考していて、その時の美術の先生にから、課外授業として、油絵の個展を見に行って、感想文を書く課題を出されて...
ただ、大きな美術館ではなく、インディーズの画家の個展を見て、そこで感じた感想を書きなさいという課題だったんです。
僕は横浜の出身なんですけど、横浜って意外とアートの街で、街角に個展をやっている画家さんたちがいっぱいいるみたいな。商店街の中に、個展会場があるような街に住んでいて、たまたまそういう街に住んでたから、ふらっと見に行って、感想を書けばいいかなって思ってたんですけど、たまたま行った個展に、画家さん本人がいらっしゃったんです。その時はまだ人と話す事が好きじゃなかったので、イヤフォンを聴きながら入ったんですね。
画家さんが何を話しているか聞きたいから、無音でイヤフォンをしてたんですけど、その時に、画家さんとお友達の会話を聞いてみたんですけど、「この絵が売れなかったらもう家賃払えないから画家やめようかな」とか...凄いシビアな声をいっぱい聞いて、画家になるって、本当に大変な事なんだなって思いましたね。
感想文には「絵で食べていく事は本当に難しいって学びました。なので、絵は仕事にせずに趣味にして、次に好きなモノを仕事にしようと思います。」って書きました。
なるほど...好きな事を仕事にする事は、とても難しいモノがありますよね。
ちなみに、次に好きなモノを仕事にされると書かれたという事は、そこからまた方向転換をされたのでしょうか?
趣味で洋服のリメイクとかをやっていたので、そこから、本当に方向転換をいきなりして、大学が付属だったんですけど、そこの学校には行かず、目黒にある杉野ドレスメーカー学院というところに推薦で入れたので、そこでファッションを選考しようと思って、デザイナーになろうと思って入学したんです。
そんな感じで、マルチに色々できるようになったっていうところなんですけど、普通に専門学校2年間のところを4年間学ばせて頂いて、専門的な部分も吸収しましたね。僕の時代は子供が凄く多い時代に生まれて、就職難だったんですよ。
しかも、東京のファッションもめちゃめちゃ盛り上がってる時で、ファッションデザイナーに憧れてる子たちなんてわんさかいて、就職倍率も凄くて、就職難民が多かったんですけど、そんな中で、大手のデザイナーとして就職が決まったんですけど、自分の中でしっくりこなくて、将来的には多分芸術的な仕事をしたいっていう気持ちはあったから、アパレルやるにしても、工場とか、アパレルの末端を勉強した方が、自分の身になると思い、大手企業のデザイナー就職を蹴って、墨田区にあるOEM会社に入ったんです。
大手企業のデザイナーを蹴って、OEM会社へ!大胆ですね。
そのOEM会社では、具体的にどのようなお仕事をされたのでしょうか?
そこで、ブランドさんの下請けの仕事をずっとやっていて、洋服を1から作ってたんです。生地屋さんに発注をかけたりだとか、色々な工場の人たちと関わる事になって、2年間くらい学びながら、洋服を作っていました。
その後に、母校の杉野ドレスメーカー学院から、教師として戻ってこないかと言われて、教師として戻りました。それで、教壇に立つようになり、生徒たちにファッションの知識とか、アートっていうものを教えながら、出身の高校が、単位制だったのと、色々な分野に特化した学校だったので、同級生にタレントさんとか、モデルさんとか、ダンサーさんとかも多かったんですよ。で、そういったお友達たちが、20代前半になると活躍し始めて「衣装を作ってくれないか?」っていうお願いをされるようになったんです。
それで、教師をやっている時は副業がOKだったのと、だいたい17時頃には仕事も終わって、夏休みや冬休みもあったので、そういった時間に衣装を作って、納品して、という生活を送ってました。
大変ですね!朝から夕方までは先生として学校でお仕事をされて、その後から衣装の制作をして、朝から晩までお仕事されていたら、プライベートな時間がないですね。
2足の草鞋はどれほど続いていたのでしょうか?
そこから数年で独立資金も貯まり、先生業も辞め、、その時は単純だったんですけど、量産される世界が好きじゃなくて、1点モノが好きで、この業界で、ちゃんと飯食えて仕事になるのって何なんだろうって考えた時に、ウェディング業界しかないなって思ったんです。で、僕が作るモノって色使いが派手だったりするので、イブニングドレスでも作ろうかなと思って、貯まった資金を全て注いで、ドレスを5着くらい作ったんです。それを、色んなウェディングのホテルとかに営業に行ったんですけど、派手過ぎて置いてくれなかったんですよ。
そこから結構過酷だったんですけど、色々なところに営業しまくって、横浜のホテルが「派手だから目立つから飾ってあげるよ」みたいな。そこで飾ってもらえるようになってから、ホテルでドレスを見た人から受注が入るようになったんです。その時は、お友達の衣装とかを作りながら、その日暮らしの生活をしてたんですけど、、、。ホテルで飾ったドレスが、この派手なドレスはなんだってなったみたいで、ロケ地とかで使われるようなホテルだったので、芸能関係者の方の目に留まって、芸能事務所さんから、そのお店通じて衣装の受注が入るようになったのが、26歳とかぐらいかな。
26歳前後で自分のアトリエを持ってドレスを作って営業に回る...
そして、ホテルに展示してもらえるようになるまでにとても大変だったと思います。
でも、それもたまたま撮影に使われるようなホテルだったという事も運命を感じますね。
そうですね。それからはそのお店を通じて衣装の受注を受ける衣装の下請けさんみたいな感じだったんですけど、あまりにも受注が多くなってきちゃって、もう手に負えないから直接やってくださいと言われて...
それで、芸能事務所さんと直接色々やる事になったんですけど、ただ、僕は衣装デザイナーだと思って生きてるから、衣装を作って、小物とかバックの付け合わせをして、衣装として納品をして終わりみたいな生活だったんですけど、あるアーティストの衣装を作った時に、カッコいいんですけど、複雑すぎてどうしても着方が分かりません。撮影現場まで来てください。って言われて、そこで初めて撮影現場に行って、香盤表を見たときに、スタッフの名前のところに、「スタイリスト 五十嵐LINDA渉」って書いてあって、それがスタイリストって呼ばれ始めるキッカケだったのかな。結構、勝手に呼ばれてきたみたいなのが多いですね。笑
でも確かに、衣装を作って小物やバッグのスタイリングを組んでいたって事は、スタイリストでもありますもんね!
ん~そう。その頃は、コスチュームデザイナーっていうのが日本では確立されてなくって、15年前くらいかな?なので、作れるスタイリストって言われるようになって、そこから色んな受注を受けて、頑張ってたんですけど、28歳か29歳くらいの時に、アッシュ・ペー・フランスさんが代々木体育館で、「ROOMS」っていう合同展示会を開催されていて、そこが、結構インディーズのアーティストたちの発表の場みたいになっている時があって、なぜかたまたま出会いがあり、アッシュ・ペー・フランスさんのバイヤーの方たちが注目してくれて、ピックアップアーティストに選んでくれたんですよ。
それで、自分が作った衣装を天井から全部ぶら下げますみたいな展示をやらせてもらったことがあって、そこから伊勢丹さんの、伊勢丹ガールの方たちが注目してくれて、ショーウィンドウの空間デザインをさせて頂く事になって、それが空間アーティストの始まりですね。
なるほど。「ROOMS」は数多くの企業が出展しますし、見に来る人もとても多い展示会ですもんね。五十嵐さんと伊勢丹さんは色々な企画をやられていると思いますが、「ROOMS」での出会いだったのですね。
伊勢丹が自分の事を育ててくれたと言っても過言ではないですね。
スタイリストをやってたおかげか、モデルさんとかの有名なお友達たちが勝手に回りにいて、その子たちが遊ぶお友達たちだったので、何かやる度に仲良い子たちが応援してくれたっていうのがあって、それで自分の名前も前に出るようになった。
伊勢丹で、ただただシューウィンドウのデザインをやるだけだったんですけど、見に来る人達がVIPすぎて、この人はなんなんだってなったらしくて、この人のデザイン売れそうだし、ポップアップをまるっと1つ任せたら面白いかもねってなったみたいで、私1人だけだとまだお客さんを呼べるレベルではなかったので、その時に伊勢丹さんがやってくれた事が、マイリトルポニーっていうキャラクターと私で、伊勢丹ガールでやらせてくれたんですよ。
その時は商品企画とか、店内の内装とかも全部やらせて頂いて、友達のモデルさんとかの名前もかりながらコラボ商品とかを作って、っていうのが36歳くらい?かな。
凄い素敵なお話をありがとうございます。
ちなみに、伊勢丹さんから始まり、色々なブランドさんとのコラボレーションや109等のファッションビルリニューアルのディレクション、そしてご自身のアンダーウェアのブランドを立ち上げられたりと、色々な企画をされていると思いますが、1番心に残っているお仕事ってあったりしますか?
うーん...えっと...なんか、全部が大変で全部が印象的...
最近で言うと、元々雑貨が凄く好きなので、ダイソーさんで商品、ブランドを1つ立ち上げさせてもらったっていうのが、自分の中でも奇跡ぐらいのことだなって、思っていますね。僕は、凄いピンクの色合いとかをよく使うって印象を周りに受けてるんですけど、今回ダイソーさんでは、大人可愛いにもチャレンジした、少し新しい領域に挑戦してみたんですね。
それが思わぬ反響で、完売続出っていう現象が起きて、あのドキドキ感は忘れられないですね。新しい挑戦だったので。最近で言うと1番印象的でした。
ダイソーさんとの商品は、プロダクト数もとても多かったですもんね。デザイン制作の時間もとってもかかったんだろうな。と、思いました!
では、今まで幅広いお仕事をされてきた中で、今後の展望や挑戦していきたい事はありますか?
今、少しづつ形になってきているんですけど、山本彰吾(THE RAMPAGE from EXILE TRIBE)とコラボレーションしたアートを最近作って、こういったテイストのアートが大好きなので、グラフィックをデジタル領域で表現できるアートを含めて、自分色というものをもっと研究して、一目見たら「コレって五十嵐LINDA渉だよね」って言われるような作品を作っていかなきゃなと思っていて、コロナ禍とかで色々な影響もあったんですけど、自分自身を高める事をしていきたいと思って、実は今アニメーションの学校に行ってるんです。
自分の絵の世界を動かしていきたいと思って、アニメーションが自分の技術で作れるようになったら、より活動範囲も広がるなと思って、あと、映像にも興味があって、映像編集は元々できるんですけど、今映像の作品も作っていたりするので、デジタルでできるアートの確立「自分色」を今研究中です。
次世代アートを作っていくという事ですね。楽しみです。それを早く見たいです。
ちなみに、話しは変わりますが、五十嵐さんの裏側を聞かせて頂きたいと思うのですが、日頃、日常的に心がけている事はありますか?
心掛けている事...
私すっごい、いじめられっ子だったんですよ。小さいとき。そのイジメられ方が漫画の題材になっちゃうくらいの。本当に、私の人生を映画にしたら、めっちゃ売れるんじゃないかなって思うくらいハードな人生を送ってるんですけど、その中で色んな事を学んで、心掛けている事って、人に感謝の気持ちをちゃんと伝えたり、人と関わる事によって、私はこの人の為に何ができるのかなっていう事を凄くいつも考えるようにしていて、相乗効果で、みんなで一緒に良くなったら世の中が素敵になると思ってます。
独り占めするって事ではなくて、共有したり、シェアしたりして、みんなで良くなりたいなっていつも心掛けてます。いじめを経験していなければ、こういう思いにはならなかったと思います。
良い事を広げていけば、みんなが幸せになるという考えって、とても素敵ですよね。映画のペイフォーワードを思い出しました。
ちなみに、凄い長い時間、フル稼働でお仕事の事を考えているかと思いますが、五十嵐さんの中での、息抜きやオフの時間は、何をされていますか?
最近の息抜きの時間は、ベタかもしれないんですけど、めっちゃジムに行くんですよ。
凄い、コロナのおかげか、運動って大事かなって思って自粛が明けてからジムに行き始めたら「こんなにストレスフルになれるんだスポーツって」って久しぶりに思ったんですね。ちょっと頭を整理したいときとか、ジムに行ってひたすら自転車を漕いだりとか、汗だくになって、寝る、みたいな切り替え方をしてますね。
なるほど!やはり、身体を動かす事って大切ですよね!
では、最後に五十嵐さんにとって35歳とは教えて頂けますか?
35歳って、記念すべき歳で、色んな人にとっても、35歳って人生の起点だと思っていて、若くもないし、大人までもない。みたいな時で、自分の人生を作るキッカケになる歳。将来あと5年かけて自分の人生を構築するための歳だと思います。
ありがとうございました!
PROFILE
五十嵐 LINDA 渉
Artist / Art Director
Official Site:https://watarulindaigarashi.tokyo/
Instagram:https://www.instagram.com/watarulindaigarashi/
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