単身でスペインに渡り、スペイン・ドイツ・タイ・ラオス・日本・インドネシアなど数々のクラブでプレーし、2020年現在、南葛SCクラブ所属のプロサッカー選手、能登正人氏。広い世界を見て、様々な分野で、常に挑戦し続けている能登氏のサッカーに対する情熱や、海外生活、自身のアパレルブランドに込める想いを伺いました。
サッカーに触れたきっかけは?
少年時代っすね。7個上に離れた兄にくっついて一緒やってたのがきっかけ。だから3歳くらいからボールには触っていて。チームに入ったのは小学3年生。中学までは大阪、高校からは福岡、その後はスペインに飛んで。
高校卒業してすぐスペインですか?
そうです。単身で飛んで、契約を半年で取れなかったらサッカー辞める気で。親に土下座してお金借りて、スペイン入りして。もちろんお金は返したけど。だから、4月に飛んで、8月にスペインリーグ4部の【CDイレスカス】の契約をとってシーズンがスタートしたので一年半くらい向こうに居ました。
プロとしてやっていこうという気持ちはいつ芽生えたんですか?
中学・高校時代からあったけれど、日本のスカウトの目には止まらなくて。ただ根拠無い自信はすごくあって。勘違いなのかもしれないけれど、それを確かめてみるべきだと思ったので、大学に進学する道を自ら断った。大学4年サッカーやった人と、高卒でプロ4年サッカーやった人の差は一生埋まらないから。18・19歳からプロになっているのか、22・23際でデビューするのかって全然違うので、僕は早く出るべきだって思った。結果的にその選択は正解だったけど。J1・J2のスカウトが30~40人くらいかな?そこに自分がハマらなかったからって別に気にしなくていいやって思いました。海外選択をして、ステップアップしてプロとして生き残っている選手って居なかったから、逆にそういう選手に自分がなってみようって思った。
海外生活での語学の壁や文化の違いはどうやって乗り越えていったんですか?
僕は座学が苦手なので、簡単な挨拶しか覚えずに現地入りして。スペインってバル文化で、朝から晩までバルが開いてるから、電子辞書、紙の辞書、あとはノートとペンを持って、バルに行って、「スペイン語がしゃべれないけど、勉強したいから教えてください」って紙を渡したの。
行動派ですね。
いきなり紙渡されたら、向こうも「は?」ってなるけど(笑)。スペイン人っておせっかいというか世話焼きだから、困ってるんだったら助けてやるよって感じで教えてくれました。と言っても全部スペイン語で教えられるから、書いてもらったものを辞書で調べるのをずっとやり続けて。トレーニングの時間以外は、ほぼバル生活っていうのを約3ヶ月。気付けば、分からないことがあったら会話で聞けるっていうレベルまでいっていたので、そっから早いです。それを積み上げていくだけだから。
単語単語の理解はできても、文章に組み立てて話すのって難しそうですね。
もちろんこう組み立てるのかな?って話してみたら違うよって言われることもあるわけで。でも、それの繰り返しで精度が上がっていくから、指摘されることを恥ずかしいと思わずにアウトプットするっていうのを続ける。気付けば、何不自由なく生活できるってレベルになってたよ。
スペインでの暮らしはどうでしたか?
3つの宗教と文化が入り混じった世界遺産の城跡の中のアパートを借りて住んでいて。そこで見る建造物や人、鐘の音、匂い全てが今までの世界とは別の世界で、異世界に自分を置いていたので、吸収も早かったし、スペインでの経験は自分の人生において大きく影響しているなって思う。
印象に残った出来事はありますか?
当時の契約が1000ユーロくらいだったんだけど、3ヶ月給料未払いだった時があって。3ヶ月分ショートすると、手元に50ユーロしかない。僕は「ペペロンチーノの3ヶ月」って呼んでて、毎日2食のペペロンチーノ生活。ゴリゴリの練習して、がりがりに痩せてっていう。(笑)でも、やっぱ人間そうなると目の色が変わるというか、ここで結果が出なかったら俺は死ぬしかないってなるから、結果がめちゃくちゃ出て。14ゴール27アシストっていう記録を出して、他のクラブからオファーがいっぱい来ました。
次のクラブもスペインですか?
当時の2009年のスペインは財政危機で、スペインリーグトップの1-2チームを除いて、給料未払いとかのお金の問題や、社会的にも若者の失業率もすごくて。この国のサッカーも文化もご飯も愛しているけれど、向こう5~10年、ないしは一生暮らすことはできないって思って。日本に戻る気はなかったので、ヨーロッパで考えた時に、イギリスとドイツの二択で。イギリスはビザの問題もあったので、ドイツの【SVゴンセンハイム】へ移籍しました。
2ヶ月目のドイツはどうでしたか?
サッカーのマーケットは、夏と冬に選手が売り買いされるんだけど、行ったタイミング的にプロチームは間に合わなくて。【SVゴンセンハイム】で、セミプロでお金を貰いながら半年プレーして、【ハノーファー96II】からオファーを貰い、移籍。そこで1年。結果ドイツには3年居ることになるんだけど、練習はトップで試合はセカンドだったり、椎間板ヘルニアをやったり、全然うまくいかなくて。一旦、日本に戻りました。
次の契約は日本?
東京でモデルの仕事とか違うことをしていたら、データベース上で僕のことを追っかけてくれていたタイの一番強いチーム【ブリーラム・ユナイテッド】からうちに来ないかって連絡をもらって。それなりの資金力もあって、契約書もしっかりしてた。タイ行ったことないし、タイに行ってからヨーロッパ戻った奴居ないし、面白そうだから行ってみるかって。タイに飛んで半年後にタイバブルがあって、元日本代表選手とかがどどどって流れてきて、日本人選手の価値が高騰して、波に乗って荒稼ぎ。4チーム在籍したかな。でも、いきなりお金を得ると人間やっぱりバグるんですね。使いに使って全く残らないみたいな(笑)
2食のペペロンチーノの時代はどこへいったって感じですね(笑)
ほんとだよね(笑)タイの後は、当時僕、オリンピックの大枠に入ってたのもあって、ロンドン五輪の監督の関塚さんが【ジェフユナイテッド市原・千葉】に居て、成り行きでキャンプ来いよって言ってくれたので、練習生からやり直して入団。でも試合にはあんまり出れなくて。給料は下がったけど、プライベートで不動産買ったりしてたから、減った収入は自分で作ったし、まあいっかって感じで。
ジェフユナイテッド市原・千葉の後は、ずっと日本ですか?
次はラオス(笑)1チームだけ資金繰りもいいチームがあって、【Lanexang United】に在籍することになるんだけど、せっかくサッカーやってるんだし、サッカーを軸に色んな世界を見てみようってね。ラオスなら、周辺のカンボジアとか他の国にも行けるし、歴史的背景でフランス文化とアジア文化が融合されていたり、特産物とかも魅力的だし、総合的に見れて面白いだろうなって。
ラオスに行って、サッカー以外に興味を持ったことはありますか?
ラオスは、鉱山資源が豊かで金銀銅が採れるんですよ。町にもゴールドショップがあって、職人が当たり前に居て。ある日たまたまバーで飲んでたら、隣りのおじちゃんが話しかけてきて。そしたら、その人がゴールドの職人で。僕ちょうどピンキーリングが欲しくて、色んなブランドを見てもしっくりくるものがなかったので、「俺がもしデザインしたら作れるの?」って聞いたら、「当たり前だろ職人だぞ」っていうから、デザインとかしたことないけど、デザイン画的なものを書いて作ってもらったら結構綺麗に仕上がって。マネージャーに見せたら「これ売れるよ」って言われて。そこからジュエリーのデザインをしだしたり。
スペイン時代のバルでの経験があるからこそのバーでの出会いだったように思えますね。その後の活動を聞かせてもらってもいいですか?
その頃からモノ作りに対しても真剣に考えるようになってきたので、次はそういう視点も含めてインドネシアに移籍したんだけど、これまた面白くて。実は、ラオスでチャンピオンになって優勝ボーナスで、チームメイトと2人で、マレーシアとバリに旅行に行って。サーフィンを初めてやったんだけど、全然できなくて(笑)なんか悔しいじゃないですか。2日・3日悶々として、Facebookで、「誰かバリでサーフィン教えてくれる人いますか?」って投稿したら、「バリ在住の友達いるよ。社長やってるから暇だろうし教えてもらいなよ。」って連絡してくれて。(笑)おかげで、波にも乗れるようになって楽しいなって感じでビーチで遊んでたら、違うサーファーから、どっから来たの?みたいな感じで声かけられて、「サッカーやってるよ」「契約どんな感じなの?」「まだ別に決まってないけど」「知り合いがオーナーだから、ちょっと聞いてみるから、プロフィールと動画くれ」ってなって(笑)
急展開すぎません?(笑)
すぐ送ってさ、そしたらその日の夜オーナーから電話きて、翌週の練習に来いって言われて。優勝旅行でバカンスだったから、スパイクはあるけど練習着も無いレベルだったんだけど、チームメイトに先帰ってもらって、一人で練習行って。5日後くらいに契約。だから、サーフィンしてたら次のチームが決まっちゃったんですよ(笑)
めちゃくちゃ楽しくないですか?そこまで来ると(笑)
めちゃくちゃ楽しいよね(笑)こんな経緯で契約取るってなかなか無いからさ、面白い経験だなって思って、逆に他を探さなくて。「行ってやろう、インドネシアに」って思って。で、【Persiba Balikpapan】ってチームで1年プレーしながら、モノ作りの側面も見て、服も作ってみたりしたんだけど。インドネシアの縫製とか仕事に対する取り組み方とかにあまり納得がいかなかったんだよね。
スペイン、ドイツ、タイ、日本、ラオス、インドネシアと来て、次はどの国ですか?
日本。本当はマレーシアに移籍しようと思ってたんだけど、日本代表の岩政大樹さんから「東京の地域クラブでコーチ兼選手やるからお前も来いよ」って電話をもらって。タイ時代を一緒に過ごしたのもあるし、学ぶべきことが多くて尊敬もしてたので、そんな人が俺を誘ってくれるなら、行こうって日本に戻って、【東京ユナイテッドFC】に、大樹さんと同じ2年契約で入団。でも、大樹さんが1年で辞めたので、俺も1年で辞めました。
その後はどうされたんですか?
次どうしようって思ってたら、「お前のことを欲しいクラブがあるよ」って紹介してくれたのが今所属している【南葛SC】。俺のキャリアを面白がってくれたし、クラブのビジョンにも共感できたから入団した。
南葛SCってどういうクラブなんですか?
高橋洋一先生の、漫画「キャプテン翼」の中で、翼くんが所属していたクラブを実際に作ったのが【南葛SC】。Jリーグ参入から世界に羽ばたくクラブっていう思いで。だから、カテゴリーも低くて、Jリーグまでも距離があるんだけど、そこまで1個1個上がっていく階段に自分が携われるって、なかなかないですよ。サッカー選手としてのキャリアもそうだし。僕はそこにモチベーションがあって、クラブのステップアップに役立つのなら、一生懸命プレーしたいって想いで在籍しています。
サッカーとしてのキャリアはもちろんですが、サッカー以外の活動の幅も広いですよね。
客観的に自分を分析すると何か1つに固執する能力がすごく低くて。例えば、タイやラオスでサッカー選手してる時も、ランウェイのモデルの話をもらって。ランウェイを歩くって人生で1回経験するかしないかっていうものだと思うし、自分の中でプラスになると思い受けました。本業のサッカーではないので、マイナスな声もあったけれど、知らないことを知る、やったことないことにチャレンジするってそもそも悪いことじゃないから。実際、ランウェイのウォーキングの練習が始まったことによって、サッカーのプレー中の立姿勢や視野も変わっていて、結果サッカーにもプラスになったし、マイナスな要素は1つもなかった。
サッカー以外の活動でやられてることを教えてください。
現在やってる事業としては、サッカー選手が主であって、サッカー選手をマネジメントする会社に業務委託という形でお手伝いしながら、友人のサッカースクールの顧問。それから、イベントのキャスティングと運営、あと自分のアパレルブランドですね。
まささんのキャリアってユニークですよね。
サッカー選手って寿命が決まっていて、30歳までやれたら万々歳。35歳までやれたらすごいね。僕は、自分が四六時中デスクに向かわなくても、色んな事ができていて、好きなサッカーもやり続けているわけだから、自分は1個の事例として残るべきだと思っていて。正直このキャリアでごまんといて、今Jリーグでやっている人の方がもちろんすごいけど、じゃあその後どうするんですかって。その「あと」っていうけど、繋がっているわけで。どっかで、はい終わりって区切って、リセットボタン押して、違うゲームやろうってできないから、何かを先行してやっていくべきだと思うし。それをやっていたのが中田英寿さんや本田圭佑さんだけど、やり始めた時はすごい叩かれてたじゃないですか。僕は2人ほど大きな規模感じゃなくても、しっかり1つ1つやれば形になって、人生大丈夫なんだよっていう一個の事例になりたいですね。
人生観について教えてください。
好きなことを仕事にするのはいいけど、好きじゃなくなる瞬間というより、向き合わないといけないからこそ逃げることができない瞬間が必ずあって。好きだから始めたことなのに、プロになったことで仕事だから、譲れない部分が出てくる。サッカーに限らず、別の業種に置き換えても同じだと思う。だから、好きなことで1番にならない。2番を目指す。みんな頑張って1番を目指すから、2番を目指す奴ってあんまいないんですよ。でも1番になったらすぐ下からくるし、ずっと好きなことを純粋に好きで居続けられるかわからない。だったら、2番で好きの気持ちの純度をキープしつつ、人と人の間にたって、色々サポートするっていう方が僕には合っているかなって。
自身のアパレルブランド「note」について教えてください。
海外生活が長かったので、気になったことは常にノートに書き溜めるようにしていたんだけど、ある日サッカー以外で何か自分自身を表現できる方法はないかと考えた時に、ノートに服のデザインを書き始めていて。男女両方に当てはまるデザインで、あとは生地が良くて、長く着れて、汗染みも出ずらく、肌心地いいものがあったらいいなって思いで、立ち上げたブランド。本当にいいものを適正な価格で、提供する。ちゃんといいものを徹底的に考えて、大量生産はせず、1点1点しっかり見るようにしています。全ての原点である僕のノートをブランドネームにしました。
中でも一押しのアイテムはありますか?
シンプルなアイテムだけど、遊び心を盛り込むようにしています。例えば、隠しポケットがついたTシャツ。最低限のものをポケットに入れて、さらっと出かけられるような大人の遊びを取り入れました。あとは、きなりのトレンチコート。切りっぱなしだから着ているうちにほつれるし、絶対汚れていくんですよ。でも、そうなったら僕に送り返してください、リメイクしますよと。裏地つけますか?色何にしますか?ボタン替えますか?襟に額つけて、違う生地あてがいますか?って。お客さんとモノづくりできるし、コートとも長く付き合っていける。いいものを作ることには徹底的に拘っているから、コストは上がるけれども、それなりの価値があるから結局みんな買ってくれる。そういう人たちを裏切らないようにするためにも、これからもちゃんといいものを徹底的に考えて情熱を持ってモノづくりをしていきたい。
能登正人さんにとって35歳とは?
多分これからもタスクは増えるし、新たに興味が沸く分野も出てくると思う。色々な人に言われるのは、歳を重ねるとだんだんそれが減ってきて絞られていくっていうけど、僕の場合は減る気がしなくて。サッカーはもちろん、エージェントの仕事、スクールの仕事、モノ作りの仕事って、1個1個に情熱を持って真剣に向き合っているから。全部やって全部成功する人ってなかなかいないから、逆にそれを狙ってみるのもありかなって。今のところ1個も失敗してないし、これから大きな失敗はするかもしれないけど、どんどんチャレンジしていいと思うから、35歳になってもまだまだチャレンジをしていきたい。そこまで残ってたら本物だろうし、自分の求めるものを、情熱を持って突き詰めていきたい。
PROFILE
能登 正人
Pro Soccer Player
東海大学付属第五高等学校卒業後、単身でスペインに渡り、2010年にスペインリーグ4部のCDイレスカスとプロ契約。その後、ドイツ・タイ・ラオス・日本・インドネシアなど数々のクラブでプレーをし、2020年現在、南葛SCクラブに所属。
Instagram:https://www.instagram.com/masahitonoto/
note
Official Site:https://note.official.ec/
Instagram:http://instagram.com/notebynoto/
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