1996年にシューズブランド【MIHARA YASUHIRO(ミハラヤスヒロ)】で自身のキャリアをスタートした三原康裕氏。シューズデザインだけに留まらず、コレクションブランドとして2004年秋冬よりミラノコレクションに初参加。2007年秋冬から、発表の場をパリに移し、海外でも高い評価を受け続けている。2016年よりブランド名を【Maison MIHARA YASUHIRO(メゾン ミハラヤスヒロ)】へ変更。ユニークでデザイン性の高いシューズやレザーアイテムは、素材へのこだわりが強く反映されており、他では見られない個性的なコレクションになっている。ウェアラインもシューズ同様、インパクトの強いデザイン性の高いコレクションを展開。今まで時代を牽引し、間違いなく世界で戦える日本人デザイナー・三原康裕氏の靴作り、服作りの原点を探ってみた。
ミハラさんは多摩美術大学(以下:多摩美大)のご出身ですが、当時ファッションよりもアートに興味があった感じでしょうか?
元々、ただ漠然と「アートで食べていきたい」「アーティストとして生きていければいいな」っていう想いがあったんだ。高校2年くらいに高度成長の経済バブルが弾けて、僕たちは就職氷河期が直面した世代。どうせノーフューチャーというか。美大に行こうと思ったのも、どこかの企業に就職したいっていう気持ちより、自分で何かをやりたいっていう想いの方が大きかったから。何かの芸術活動をしたいという想いと、企業という一つの保護された環境には属さないという気持ちで。だってずっと大人達が言う「学歴社会」に翻弄されてきたから。なので、日本中から芸術に興味のある同世代が集まる美大に行こうと思った。どちらかと言うと芸術を学ぼうと言うよりは「武者修行」みたいな感じ。自分の才能を試してみたかった。
どうせノーフューチャーという言葉が印象的です。アート自体にはもっと前から触れられていたんですか?
小さい頃、お母さんに連れられてよく美術館に行くじゃない?絵画とか彫刻って触りたくても触れないじゃない?触ろうとすれば警備員や大人に止められる。その時に、子供ながらに「人と芸術作品は調和しない」ということを知る。芸術作品というのは、ある意味鑑賞用になってしまっていて、実際の作品の意味より功績だけが保存され、記録されていく。中学生くらいの時に疑問符が出てきたんだよ。「本当に芸術ってこれでいいのか」って。その時に答えは出なかったんだけど。
とても哲学的ですね。その答えを探しに美大に?
やっぱり「人と芸術を調和させたい」という想いがずっとあったんだよ。自分が芸術品を作っても、それは美術館に飾るのを目的だとは思わない。もっと身近な芸術って何なんだろう。それを探求しようっていう気持ちで。大学は大学でも美大って特殊じゃない?教育ではないというか、信念や哲学、感性やセンスっていうのはもはや教わるものじゃないじゃない?それに教育されても自分のものになるとも限らない。それも面白いなって思った。
アートって色々あると思うんですが、ミハラさんは何をやられていたんですか?
実は、音楽。(笑)アンビエントミュージックっていうか電子音楽?実験音楽?何かはっきりしない音楽を作っていたんだ(笑)。当時、イギリスではコンテンポラリーアートでダミアン・ハーストとかが出だした頃で、もう人々の不満が爆発寸前で時代が変わる予感しかしなかった。いい意味で何もかも破壊される予感だった。その当時、僕も情熱的に焦っていたというか生き急いでいたんだ。それで自分で作った音源をカセットに入れて、レコードレーベルを探しに21歳の時にロンドンに行ったんだ。毎日色んなレーベルの人達と会っていく中で、スケジュールが2日空いた日があってさ。パリに行ったんだ。ルーブル美術館を観に。
まさかの音楽をやられてたのは驚きですが、パリのルーブル美術館はどうでしたか?
画集でしかみた事ない絵がこんなところにかけてあるっていう感じで感動したけれど、それよりも自分が思っていた以上に、パリは芸術が人々の生活の中に当たり前に存在している。そして小さい頃からこんな美しい街並みを見ることが出来る環境はとてもいいなとも思った。僕がフランス人に生まれていたら、人と芸術を調和させたいだなんて思わなかっただろう。もっと純粋にアートに触れていたんだろうなって思った。
アートからファッションに興味を持たれたきっかけはあったんですか?
ちょうどルーブル美術館の地下で、ファッションショーをやっていたんだ。インビテーションを持ってなかったから入り口でいろんな人に声をかけて「GIVE ME TICKET!(インビテーションって言葉を知らなかった笑)」と叫んでいたらよっぽど哀れに思ったのか、ある日本人のヘアメイクさんがインビテーションをくれてさ。それが初めて「ファッションショー」というのを観た経験だった。ロメオ・ジリ(ROMEO GIGLI)というブランドで、当時、ロメオ・ジリのクリエーションも素晴らしかったが、人間離れした骨格のスーパーモデルがいっぱい出ていて、もうとにかく意味がわからず圧倒されて。で、ふと思ったんだ。僕が思っているより芸術は日常的で、ファッションもアートと変わらないと。僕の日常の景色とは違う、絵画みたいな世界が日常の中で広がっていることを目の当たりにして、初めて腑に落ちたというか。
パリでの体験がある意味ひとつの転換期だったんですね。
「作る意味」がようやく見えてきたって感じかな。簡単にいうと「カルチャーショック」だよ。僕自身いわゆる固定概念的な“芸術”という言葉に縛られ過ぎていたんだな。「もし人と芸術を調和させたいなら、人が日常で使えば良いじゃないか。」と思うようになった。僕は作品が問題提起することで「人に思考を強要するのが芸術の力」だとも思っていたし、後々にゆっくりと僕の中での答えは輪郭が見えるようになったけど。
キャリアや評価はあとからついてくるって言いますもんね。それで、ファッションの道へ?
音楽の話に戻るんだけど、その頃エイフェックスツイン(Aphex Twin)とケン・イシイ(Ken Ishii)っていう凄い才能のテクノミュージシャンが出てきた。その二人のアルバムを聴いて「よし!辞めよう!」って思ったんだ。この素晴らしい人達で十分だ。って。(笑)その頃の僕は若いから恥ずかしい話だがいわゆる「時代の先」を追うのが好きだったようで。(笑)自分が表現したかった世界観を表現する才能を持った誰かがいるならそれで充分だし、これからは単純に「無骨に何か」を表現したいと思った。そういう目線で周りを見渡した時に、靴ってすごく興味深かった。靴は人が使用するものであり「人と物との調和のイコン」でもある。
そしてとても重要だったのは、僕は大体の物質の形をみれば、頭の中に設計図がかけるんだけど、靴はそれができなかった。どう考えても作り方がわからなかった。木型の存在も知らなかったし、革がどうして丸く成形できるのか全くわからなかった。当時はインターネットなんてないし、本屋に行っても専門書は無く、答えが見つからなかったんだよ。
確かに木型っていう概念が無ければ、靴ってどうやって出来ているのか全くわからないですよね。形を見れば見るほどにハテナが頭の中に生まれますね。
でもそれが靴を気に入った理由。誰からも教わらないことをやりたかったから。産まれた頃から親の影響で芸術に触れてたし、自分で考えて行動する事に対してとても敏感になっていたんだ。
音楽から靴っていう転向の幅がすごいですね。
若い頃って可能性が沢山あるように感じちゃうじゃん。逆を言えば選択肢が多いことは若さの欠点だ。マルチになんでもやりたいと思うと「限られた時間」を色んなものに割いたわりに、結局何も得られないことになると思った。やるべき事を一つに絞りました。結果的な話だが靴を作るようになって出会う人々が「美大で美術の勉強してるのに、なんで靴作ってるの」って聞かれるたびに、めんどくさくて「靴が好きだから」としか答えなかった。啖呵を切るように「人と芸術を調和させるために始めました。」ってその頃は言うのも恥ずかしかったんだよね。自分の名前がまさか世の中に出るとも思ってなかったから。
ミハラヤスヒロといえば、世界のランウェイの常連ブランドですが、ファッションショーに出るきっかけはあったんですか?
コラボレーションという概念があまりない時代に、スポーツブランドのプーマ(PUMA)と【PUMA by MIHARA YASUHIRO】を2000年の記念に日本限定で2000足を販売したんだけど、当時このコラボレーションに関する問い合わせがドイツのプーマ本社に殺到したんだ。こんなに話題になるのは異例で、「ミハラヤスヒロって一体誰だ。」って。その結果、海外での発売が翌年からシリーズ化したのだが、とにかく毎回「プーマ バイ ミハラヤスヒロの“ミハラヤスヒロ”ってなに」って結局なる。(笑)今だとウェブサイトや情報を検索すれば良いが、その頃はまだインターネットなんかモデムの時代で発展途上中。調べられないし、情報がない。その頃は靴だけでなく洋服もスタートしていて「東京コレクション」に出てたから、プーマ本社から連絡があって「もういい加減にヨーロッパでショーをやってくれ。誰もお前のことをはっきりと断言できない状況だ。女性だと思われていたり、物質のイメージであったり、好き勝手に解釈されている」ってね。だから、無理やり海外に出された感じだった。
Photo by Takeshi Hanzawa
確かに当時はまだコラボレーションという概念もなさそうですもんね。
コラボレーションって概念は当時まだなくて、どちらかというと「ダブルネーム」という感じ。ジル・サンダーがプーマを選んでプーマのスニーカーにジルの名前が入るような感じ。名もない極東のシューズデザイナーをプーマが起用しても、このスニーカーを販売しているセレクトショップやデパートはどう扱っていいのかわからないんだよ。誰もミハラヤスヒロの得体を知らないって状況だったから。余談なんだけど、ロンドンのセルフリジッズに行ったときに、看板に「MIHARAYA SUHIRO」って。(笑)それを見て、「もう本当にショーをやらないと駄目か。ミハラ屋か。」って思ったんだ。(笑)
ミハラ屋(笑)最初のランウェイは、2004年のミラノコレクションですか?
そうそう。2003年のミラノコレクションに展示会から入っていったの。ショーをやったのが翌年だね。それで3年くらいやった後にパリに。僕にとってはいきなりパリでショーをやるのは恥ずかしかったんだね。しかし、パリはミラノより僕にとってやりやすかった。なぜならクリエイティブなことを書くジャーナリストほどパリに集中するんだ。そういう背景もあって「ミハラはパリで発表すべきだ、パリでも見たいからやってほしい。」っていうオファーが増えて、パリに出るようになったんだ。
ロンドンコレクションにも出られてましたよね?
僕がイギリス好きってのもあって、メンズファッションウィークがスタートしたタイミングでロンドンも2年間くらいやった。ロンドンのジャーナリストはカルチャー的にストリートというか。ファッションを独特の見方でしてくれる人が多かったからすごく好きだったんだ。しかし、新しいスケジュールが発表されて1月5日からショーが始まるってなったときに、もうやる気なくなっちゃって。(笑)だって、12月28日にロンドン入り、モデルオーディションしてから年を迎え、スタイリングして、フィッティングして、ショーしてって。やりたくないでしょ?正月をロンドンで迎えるって聞こえがいいけど、仕事だよ?正月くらいせめて正月番組見ながら朝から笑いたいじゃん。それを人生からなくしたらどうなっちゃうのって。(笑)
年末年始くらいゆっくり過ごしたいものですね。ミハラさんにとって忘れられないプロジェクトはありますか?
京都の西陣織の細尾さんとの仕事かな。僕は色々な意味で、少しうんざりしちゃう性格で、特に【伝統工芸×デザイナー】っていう例。デザイナーが手掛けることで伝統文化が息を吹き返すという村おこし的な発想が大嫌い。そういう依頼が来るとうんざりする。ファッションデザイナーを魔法使いかと思ってるのかなって。そんなの伝統工芸にとっても良くないし、デザイナーにも勘違いさせてしまう。ある時、西陣織の細尾さんの依頼がきた時も、てっきりそういうお話だと思ってね。とは言え、西陣織は世界で一番長く続いている生地の歴史でもあるし、多摩美大の時にテキスタイル科だったのもあったから、無下にするのもよくないって思って、一回見てから断ろうって決めて京都に行ったんだ。でも、実際に見てみたら昔の西陣織のイメージじゃなくて、彼らはもうとっくに進化していたんだ。村おこし的なデザイナーになにかしてほしいっていうような依頼ではなくて、海外進出も始まり、次世代を考えて未来に向かって動きたいっていう人達で、それに深く感動したんだ。
次世代を考えて次に向かって動きたいって、伝統を昇華させていきたいっていう感じでなんだかとてもワクワクするしカッコいいですね。
本当にそう。今まで断ってきた依頼は、「職人の伝統的な」って、ほぼ聞く言葉は同じだったんだ。仮に300年前から続いている伝統があったとしても、300年前の職人は、それがイノベーティブ(革新的)で、新しい挑戦であり、伝統って言葉使ってない。それがいつの間にか、時代やマーケットが変わっても「・・・伝統的な」ってもはやセールストークでしかない。でも、初めて細尾さんに行ったときに、自分達で織り機のジャガードのコンピュータープログラミングを開発していたり、ミラノサローネに出展していた。西陣織の織り幅を広げた生産をして伝統的なものを進化させる努力をすでにしていた。僕が出る幕でもないほどにしっかりやっていたんだよ。だから僕も純粋に一緒に仕事をしたいって思った。洋服に適してない西陣織を発展させスーツを作るのがとても楽しかった。そのプロジェクトやチャレンジがきっかけで、ビッグメゾンから服用の生地が依頼されるようになったのを見て、あの時の努力は良かったなって思うんだ。
良い形での化学反応といいますか、まさに相乗効果ですね。ミハラさんから見た“現代のファッション”はどういうものですか?
世の中のファッションの価値観は大きく変わったと思う。僕が思うファッションは“才能”だったんだけど、今はもう変わり果ててしまった。それこそビッグメゾンなんてひと昔前までテーゼでありモードの世界の中心。ある意味エレガントの象徴であった。一方、僕らのようなアンチモードはカウンターカルチャー的なマイノリティな世界。でも今や、そういったマイノリティの世界の人間、言い換えればアヴァンギャルドなデザイナーたちをビッグメゾンはデザイナーとして広告のように起用していく。結果、SNSやセレブリティーを多用して情報を産み出しばらまく。「戦略」が全てのようになってしまった。何がテーゼでアンチテーゼなんて理解不能だね。その茶番劇に付き合わなければならない。
個性的な装いをする人も減りましたよね。みんな同じような恰好をしているというか、普通なことが素晴らしいというか。価値観も少し変わっていっているように思います。ここからは少し芸術のお話を伺いたいのですが、影響を受けたアーティストやデザイン的に好きなものはありますか?
マルセル・デュシャン(Marcel Duchamp)の影響が一番強いかな。20世紀初頭の芸術家です。いろいろな作品を残してきたが「レディーメード」というシリーズがあって、男性用便器を逆さに置いてサインした「泉」っていう作品が有名です。他にもデパートで買ってきたスコップにサインしたり。僕が子供の頃は、親の影響でセザンヌやモネを見て育てられてきたので芸術は、その作家の美意識だと思っていた。なので13歳の時にマルセル・デュシャンの作品を見て、全く納得出来なかった。しかし、それから「芸術とは?」という問いが常に頭で回るようになってしまった。「芸術とは一体なんなのか?」っていう問いをずっと考えさせるわけだ。それはとても衝撃的であったという事です。僕らが「おはよう」「おやすみ」って言葉と同じように「芸術」って言葉を教えられて、盲目的に芸術作品を観て学び「芸術」はこういうものなんだと概念が産まれる過程で、「芸術とは一体なんなのか」って問いはショックだったとも言える。
その「?」が結果的に僕を生み出した。僕が思うに「人を強制的に考えさせる力」こそが結論的に芸術と人の調和にもつながる。人それぞれの芸術に対する捉え方はあるが、僕にとってはそれ以上でもそれ以下でもない。
以前お会いした時に、「ガラクタ」と呼ばれるものや「意味のないもの」に惹かれると仰っていたのを覚えているんですが、それらにも「人に何かを考えさせる力」が宿っているからってことですか?
まさにそうで、僕が意味のないものが好きな理由は、ある時代の価値がもうすでに終わってしまったものの、その後の存在はなに?って考えた時に、見方によってはその可能性って拡がる。例えば、道に落ちている缶。中身が入っていれば、人間の使用目的があるから自由ではない。でも飲み終わった後は、ただの金属の物質。人間にとっての必要性がなくなり、人間に媚びを売っていないただの金属の物質。そういう存在になったその缶の方が、僕らより哲学的な存在になる。要は何にも縛られない自由な存在になる。ここに一つのメタファーが生まれる。人間は物質主義で欲の賜物の一方で、人間からの価値のなくなったような物質は「存在」が剥き出しになる。でもこの存在は、人間の価値を失ったからこそ出てくる「自由の象徴」とも言える。だから物の価値は失った時に本質を知る。だからそういうものを見つけると強く美しく感じ、好きになる。
「物の価値は失った時に本質を知る」「芸術とは人に何かを考えさせる力」続々と名言が連発されていますが、ミハラさんが手掛けるプロダクトにもその神髄が込められているんですか?
もちろん自分が作るクリエーションの本質も、人に何かを考えさせる方向へ傾倒していった。それはブランドをスタートした昔から変わらない。僕にとってファッションとアートの境界線は元々ないんだ。単にその商品に触れる人々が何かを考えるきっかけになるものを作りたいっていう感じかな。
最後に、35歳へ贈る言葉はありますか?
35歳なんて、僕は一番うんざりしていた時期。ある意味で世間的に32歳くらいになると、失敗を繰り返し、ようやく仕事を覚えて社会的に存在が認められる時期。その後、32歳から35歳の間にだいたいみんな調子に乗るんだよ。それはそれで否定はしないし、それは悪いことではない。しかし現在、僕はなるべく慎ましく、誰にも迷惑を掛けずに生きていきたいみたいなマインドだからこそ言えるのは、35歳なんて調子に乗るときだし世の中の何もかもが判った風になる。そういう人に贈る言葉は、「やっとスタートラインだね。」かな。
PROFILE
三原 康裕
Designer
1972年、長崎県生まれ。 福岡出身。多摩美術大学美術学部デザイン学科テキスタイル専攻で学び、靴のデザインを始める。芸術を学校で学ぶより、生活の一部としての靴をデザインすることに興味を持ち、靴の工場で靴作りを学び始め、1996年には靴メーカーのバックアップによりオリジナルブランド「archi doom」を立ち上げる。大学在学中、三原は独学で最初の靴を作り、1997年に自身のレーべル「MIHARA YASUHIRO」を立ち上げた。
2000年「PUMA by Mihara yasuhiro」スタート。(2015年継続。)
2004年 ミラノコレクションに初参加。
2007年 パリコレクションに参加 。
2016年 ブランド名を「MIHARA YASUHIRO」から「Maison MIHARA YASUHRO」に変更。
2020年「general scale」という環境的責任を掲げたブランドをローンチする。(2021年4月から販売予定)
Official Site:https://miharayasuhiro.jp/
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